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特別単独公演「CRYAMYとわたし」

日比谷野外大音楽堂

​-第三部-

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びっしょりと汗をかいた四人がステージに戻る。


完全に陽が落ちて暗くなったステージを照明が照らし、客席もその光の中にいる四人を固唾を飲んで見守っている。夜が深まると少しだけ風が強くなったのか、カワノのシャツがバタバタと揺れているのが遠くからでもよく見えた。相当に疲弊した様子の4名はフラフラと持ち場につき、演奏の準備を整えていく。


長時間の演奏と異様な空気にさらされ続けている観客もそれは同様で、疲労からベンチに腰掛けて次の出方を伺うもの、酒を片手にふらふらと揺れるもの、立ちすくみながらステージをじっと見つめるもの、さまざまな人が入り乱れていたが、いずれにせよ、4人の一挙手一投足を、ここまで二時間を超える演奏にも関わらず多くの人がじっと見つめていた。筆者同様に立ち見スペースに観覧の場所を移動してきた別の関係者から「あそこまで客が集中しているステージは見たことがない」と伝えられたほどだった。

カワノが息を切らしながらゆっくりと話を始める。

「大袈裟にいってしまえば、これは俺の遺書だ」


「俺たちが作ったこのアルバム(「世界 / WORLD」)の、どこをどう切り取ってもらっていい、全てが俺の遺言だと思ってもらって構わない」

そう吐き捨てられて、ここにきて鳴らされたのは、ある意味で「世界 / WORLD」を象徴する一曲であり、また、この消耗し切った三部目に持ってくるにはあまりにも命懸けの一曲である、このバンドで最も激しい楽曲の一つであろう「葬唱」だった。彼ら四人は、ここで何もかも使い果たすことを決心している様子だった。

「葬唱」。英題は「Ceremony」。まさに「遺言」とまで言い切ったことを裏付けるような、ここにきて最もハードで命懸けの楽曲。ここまで二時間以上の演奏を続けてきた以上、普通のバンドであるならボーカルの声は枯れ果て、楽器隊…特にドラマーは体力の限界を迎えているだろう。実際、この曲は体力・精神力的な消耗を考慮されてなのか、ライブでは序盤に演奏されることが多かったように思う。しかし、CRYAMYは異常なバンドだ。カワノの歪み切ったシャウト一発が夜を切り裂き、続くブラストビートとノイズの壁は、恐ろしいことにむしろこの日のこれまでの最高音圧を優に超える爆音だった。

そもそも、CRYAMYは決して演奏巧者・ライブ巧者ではないとされてきた。初期の頃の演奏のジャンクさや、ライブで度々骨折や流血、楽器破壊をするなどの無茶をやっていたことは本人たちも笑ってネタにしていたし、演奏に納得がいかずにライブやレコーディングのたびにメンバーをカワノが怒鳴りつけることも多かったそうだ。そして、内部に限らず、リスナー・同業者ともに彼らを語る際には、スキル的な優位性や作曲の高度さを言及されるようなバンドでもなかったのが事実である。


しかし、日比谷に足を運び、これを見た人だけは大いに実感し、わからされたのではないだろうか。彼らは間違いなくフィジカルなバンドとしてはあまりにも強靭すぎる存在になった、と。どんなに彼らに懐疑的でも、こんなものを見せられたら、何も言えない、と。なぜなら、こんな芸当は誰もできないのだから。


二時間のぶっ続けの演奏を超えて、ここにきて体力と気力のガス欠を厭わず全力で叩き込み、さらにアンサンブルを失速させることなくむしろ推進するオオモリのドラムを真似できる人間がいるだろうか?あくまで冷静さを欠かずに合奏の隙間を埋めながらも、音を途切らせずに速いビートをブレることなく弾き続けるタカハシのベースを担える人間は他にいるだろうか?集中力を途切れさせずに、それでいて大胆な感情表現を何よりも優先させながらあの巨大な音を効果的に配置するフジタの持つギターのカリスマ性やスペシャリティを他人が真似できるだろうか?何よりも、周りの轟音中の轟音の巨大すぎるサウンドを、怒鳴り声で逆に圧倒し続けながら、ここにきて謎に声量が格段に増した馬鹿でかい歪みまくった声をあの小さな体から出せるカワノの肉体・精神力を誰が超えられるだろうか?カワノの放つこの異常な生命力を持ったボーカルが存在するだろうか?


ここにいる人たちはここにきて、「俺たち・私たちは特別なバンドを見せられている」と感じたのではないだろうか?

太陽が完全に落ちた野音で、ようやく真の効果を発揮し始めた照明が楽曲を過激に彩っていく。サイケデリックなステージ上でカワノの痛みと悲壮な覚悟に満ちた強烈な歌詞世界がブログレッシブに進行していき、残るタイムリミットは一時間。残された時間を文字通りここで使い切るべく、彼らの第三部は幕を開けてしまった。彼らのセレモニーは、もう終わろうとしている。閉幕に向かって、日比谷の誰もが走り出した瞬間だった。

カワノが「葬唱」の歌詞にある「使いこなせない愛と誠実」に対し、

「今日は…使いこなす」

と宣言したのと同様、続く「待月」を前に、「歌うということは負けるって言うことだよ」にたいし、

「今日は勝つ!」

と吠える。

 

轟音のなかでここにきて増し続けるカワノのボーカルに負けじと、他3人の楽器もどんどんカオスに、しかし切れ味を増し続けていった。


観客も同様に、立ち上がるものも、座っているものも、一連の緊張状態にはもちろんいただろうが、どんどん感情の坩堝を形成しているのが見てとれた。それは客席が分かりやすく沸くとか、歓声が上がることではなく、もちろん表情も確認できないのだが、なんというか、「そういう空気」が確実にあったのだ。

その空気が一気に開いたのは、間違いなくこの後に続いた「月面旅行」だろう。カワノが

「大事にこの曲を聴いてくれてありがとう」

「君たちは…永遠に生きると思うよ、なんとなく!」

と告げて始まったこの曲を、長く待ち望んで諦めなかった3000人の群衆が背中越しに発するエネルギーは、ステージの美しい光の演出と丁寧に鳴らされた演奏も相まって凄まじいものがあったのだ。


喜怒哀楽を余すことなく飲み込み、時に深刻で時に残酷なCRYAMYの楽曲は、決して多くの人に届くことはなかったが、少なくとも、彼らが大事にしてきた人々や、何よりも今この瞬間、彼らに一番大事に愛されているここに足を運んだ一人一人にとっては、何よりもかけがえのないものだっただろう。客席を埋め尽くした喜怒哀楽とそれぞれの人生が放つ輝きは、この時ステージを見下ろして照らしていた月よりも眩しかった。

そのままインプロヴィゼーションを挟んで「プラネタリウム」へ接続。その後、立て続けに「街月」をダイナミックに投下する。「月」や「夜空」をモチーフした楽曲を立て続けに叩き込み、野音の上空を支配する暗い空すら舞台装置に変え、ライブは進行していく。「街月」ではカワノはたまらずステージ前方に踊り出して、「フロア」を目掛け、ここにきてようやくまっすぐな愛を、息も絶え耐えながら惜しみなく衒いなく、メロディに乗せてまっすぐに注いた。


そして、間髪入れず、轟音とシャウトから、彼らの音楽そのものを心象に落とし込み、疾走するパンクに乗せた、このバンドの必殺技、「マリア」を演奏開始。エキサイトするフロアに向け、絶叫を連打し、加速度的に終わりへと歩みを進めていく。最後の「死ね」の連打を、カワノは唾を吐いて打ち切り、続いて吸い込んだ息で「生きろ!」と絶叫。「愛と誠実を使いこなす」「負けてきた日々も今日は勝ちを掴む」その宣言のはてが、「生きる」という、この日まで一貫してブレることのなかった強烈な主張とメッセージとなって観客に絶叫として降り注いだ。

第三部の最後、爆音のフィードバックノイズに導かれるようにはじまったのは、「世界 / WORLD」のオープニングトラック、「THE WORLD」。直感的に、これで終わる、と身構える。CRYAMYの楽曲に内包された痛みや悲しみを引き受け、受け止め、そしてその悲壮な覚悟のまま、歌詞にあるようにほとんど自殺のように玉砕する今日のようなライブを締めくくるのは、この曲しかないと思っていた。疾走するビートに乗せ、これまで自分からも他人からも強いられてきた「勇気」も「本気」も、その果てに待っていた「夢中」も「狂気」も、それによって生まれた「歌」も「声」も…最後には、「不幸」であった自分も、「うるさい」と日比谷の空に捨てていく。「うるせぇ」の絶叫のたびにはがれて行くカワノの人間性やこれまでの歩みは、ここで消えてしまうために体に纏わせてきたのかもしれない。


楽曲の最終盤、ギターを放り投げてマイクにかじりつきながらスキャットを客席に飛ばす。「We Are CRYAMY From Tokyo」。その宣誓をエンディングに叩きつけ、カワノは全ての力を使い果たしたのかその場にうずくまり、メンバーは楽器を置いてステージからさって行ってしまった。

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