Diary

シカゴでのレコーディングで得た強烈な余韻を叩き壊すかの如く、レコーディングは最終局面に突入。録音された11曲は、時差を乗り越えて、スティーブ・アルビニと同じくshellacの一員であるボブ・ウェストンとのオンラインでのマスタリング作業に移った。
日本で言う(というか、我々の)マスタリング作業なんていうのは一晩で酒でも飲みながらとっとと終わらせたり、そもそもやらなかったりするんだが、あっちでは違うようで、たっぷり時間をとって少しずつ完成に近づけていく。「アメリカ人の仕事はラフで大雑把だ」という奴らが多いが、とんでもない、あっちの方がよっぽどきめ細やかで、音に対するリスペクトがある。
帰ってきてから、多少は浮かれたり、体を休めたりするのが普通なもんだろうが、帰国してからもアルバムのリリースに向けてやることは膨大。故に、土産話を期待する友人からの連絡や飲み会の誘いは全て返せておらず、ほぼ毎日のように労働にいそしんでいる。
こうやっていくことで日に日にアメリカでの記憶やEAの最高の環境で鳴らした音、コントロールルームでスティーブと聴いた出来立ての音源の感動は吹き飛んでいってしまうのだが、それもまぁ仕方のないことだろう。時間の経過だけはどうリスペクトしようが温めようが、薄れ、蔑ろにされ、体温を失っていく。あの熱や記憶のディティールは、みんなにこのアルバムが何かを届けていく頃に、また俺自身にも届けてくれるだろう。
ミックスまで完成したラフな音源は、マスタリングを待たずして既に深く、生々しい息遣いを持っていて、強烈な深刻さや壮絶さは言葉にはどうにも表すことが難しい。アナログテープに吹き込まれた叩きつけるような四者の楽器は「サー」と言うアナログ特有のノイズに紛れて、機械的な明瞭さやワイドな音のレンジを放棄する代わりに、一才の要素をスポイルすることなしにありのまま空中に浮かんでいた。
最終日、スティーブが神経質にマスターテープへと音源を焼き残す背中を眺めながら、豊かに響いた11曲は、間も無く音量を増幅させ、誰もが耳に届く姿へと生まれ変わって、この世界に放たれる。


思い返すととてつもない怒涛の日々の中で疲弊した身体をなんとか人間の形に保っておくのに必死だった。
レコーディングが終われば、元気なメンバーやスタッフチームの明るい声を他所に、街を練り歩いたり休息を挟む隙もなく気絶するようにベッドで眠って、朝早く起き上がったらその足でエレクトリカルオーディオへと向かう毎日。スティーブは「俺はロボットだ」と冗談めかして俺たちに語りかけたが、どうやら俺もそのロボットの一員のように日々を過ごしていたようだ。
俺たちの家からEAまで続くベルモント・アベニューは晴天に恵まれた日が多かった。照りつける太陽と青空を眼前に据えながらタバコをふかして歩く道のりで何を思っていたのか、覚えておけばよかったのだが、あまりに必死を極めすぎていて、何も覚えていない。
スタジオに入った初日、スティーブは俺たちに事細かに機材の説明や彼のレコーディングでのスタンスについて、馬鹿な東洋人でもわかるようにとてもわかりやすい英語で教えてくれた。スティーブの過去の破天荒な言動の噂や、彼の組んでいるいくつかのバンドで見られる破壊的なサウンドとは対照的に、柔らかい物腰で俺たちを歓迎してくれた。
「日本語が上手じゃないです」と片言の日本語で告げて笑った後、「コーヒーはいるか?」と聞いてくれた。
俺たちはこのコーヒーをレコーディング終了まで毎朝淹れてもらって飲むことになる。


広大なスタジオ内で見る見るうちに組み上がるマイクの数はたったの24つ。
24トラックでこの空間をパッケージングすることで俺たちのアルバムは完結する。この24発を日本で可能な限り再現するために、これまで試行錯誤しながら何十本もマイクを立て続けた日々を思い出して胸が熱くなった。
そこでは…日本ではあり得ないほど吸音を考えない煉瓦造りのスタジオでは、無限に俺たちの音を反射し、その反射すら、彼にとっては作品の一個のピースだった。
俺たちの暮らす町では決して聴くことのできない、機械的な要素の一才がない(スティーブはパソコンすら一度も立ち上げなかった)不思議な楽器の奥行きと空気感が俺たちを高揚させる。


音を作り終えた時、テックの八木さんがあまりの感動に押し黙っていた。
声をかけると、「俺が作った音って、俺が作ったように出してもらえるんやな」と声をわずかに震わせていた。
職人がどんなにこだわった音を作ろうとも、結局商品化される音楽は、音量差の圧縮と聴きやすさ重視の帯域整理、人工的な空間処理を施してリリースするのが当たり前。そんな日々では味わえない、本のわずかなニュアンスや、あえては雑味も残したまま鳴り響く俺たちの音がテープに克明に記録されていく。
こんなに嬉しいことがあっては、職人も少年に戻らざるを得ない。
アーティストの理想の音を作ることを仕事にしている彼だが、それでも、これまで幾度となく辛酸を飲んできた日々があっただろう。いつだったか、「お前らのレコーディングは無茶苦茶やってもいいからええな〜!」と言ってくれていたが、恐らくこの日が俺にできる最高のメチャクチャだっただろう。
彼をここまで連れてきて本当によかった。少しは恩が返せたのなら、俺は嬉しい。

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結局、俺たちはレコーディング中、音像を曲ごとに変えることはなかった。「これだ」と直感でキャプチャーした音を信じて、その音のまま全ての曲を、最初から最後まで演奏を続ける。
同じ部屋に四人で立って、一発録音、オーバーダビングなし、クリックなし、修正なし。
当たり前に、音はあり得ないほど混ざるし、尋常ではないほど反射するし、ファズの爆音でベースドラムはかき消されるし、もたるし、走るし、割れるし、仕損じるし、ミスる。だが、この作品はそれでいい。これまでの、ある種、強烈にストイックになることで、スタジオの内圧を高めて異常な緊張感で作られてきた過去の作品とは違う、そこにある別種の激情。まるで生演奏やライブをその熱気のまま保存するように、その激情を逃さないことが大切だった。
それに、俺はこの3名の作る、下手くそで歪極まりなく、今にも破綻してしまいそうだし、むしろ俺の方から働きかけて破綻させてやろうと毎回の如く怒鳴り傷つけて追い詰めまくったグルーブの中に歌を泳がせるのは慣れている。
その姿は、望んでか望まざるかは、複雑な思いがあるからあえて口にしないが、もうこれが俺たちの今の所のあるべき姿であり、このシカゴの空間と磁場と、スティーブの技術があって初めてそれをレコードすることができるのだと、俺が選んだようで実は導かれてここまで来たのだと、最初の一曲を録音した瞬間に確信した。
そんな俺たちを、スティーブはただテープを回して保管し、「どうだ?」と聞く。
緊張して神経質になるメンバーはやり直しを望んでくるが、それを制して俺は「OK、これで行く」とジャッジ。そうしてとてつもないスピードで日々は回転し、結局、2日半ほどでバンドサウンドは完成した。
スティーブはいいテイクは「Coolだ」と褒めてくれるが、アレンジやサウンドメイクにはほとんど口出ししない。俺たちが望むままに残すだけだ。せいぜい、俺のギターのチューニングが怪しくて、「次のテイクではチューニングした方がいい」と言ったくらいだろうか。
拙い英語で、たかしこの通訳も待たずに単語単語で指示を飛ばす俺とそれを聞いて音をコントロールするスティーブの様子だけは、日本にいる時と同じく、真摯で情熱的だった。
それは、俺だけではなく、何よりスティーブが俺たちに真摯に向き合ってくれている証拠だった。




楽器隊を完了して次は歌入れへ。
EAで歌われた俺の歌はどこまでも伸びていったし、なんの着色も脚色もなかった。ライブでがなりたてて感情のままに歌ったようでもあるし、さらに言えば、まさに部屋にあぐらをかいてギターを奏でながら出すような歌声だった。生々しさとは、こう言うことだと言わんばかりに。
スティーブはしきりに「リアルさ」を大事にして録音に臨んでいた。
彼のリアルさは「同じ空間で楽器と歌が同時になっていること」の極限までの再現。それは歌声にあってもその通りで、俺のボーカル録音には3つのマイクが同時に使われた。一つのマイクは俺の眼の前から遥か彼方に離れたところに置かれていて、コントロールルームで聴くと、俺の声と、加えて空間の鳴りすらも捉えて録音をしていた。
その空間の「鳴り」は、デジタル録音のプラグインで加えられる機械的なリバーブとは違う。均一で、どの帯域でもどの音量でも同じ深さでかかるようなリバーブではなく、たとえば…囁くように歌えばそれはいないのも同然だが、一変して俺が巨大な声でシャウトをすれば一気に部屋が振動してリバーブが不規則にかかる。同じ曲でも俺の歌のテンションでまるで響き方が変わる。
生き物のようだったし、俺の声は俺と言う生き物から発されている以上、それは気づかないだけで当然だ、と俺に突きつけてくるようだった。
加えて、俺もスティーブも、歌声の補正や修正を望まなかった。ピッチ補正やコンプレッションでの音量の均一化を当たり前とする現代音楽において、ここでも俺たちは邪道だった。日本で歌を録る時、大体俺は一般的なマイクの距離から大幅に下がって歌を録音する。叫び声がデカすぎてすぐにリミッターに捕まり、結局コンプをかけられてしまうからだ。(高山さんは俺がコンプでニュアンスが死ぬのを嫌がるので、声の大きくなる叫びの部分だけ分けて録音したり、細かくオートメーションを書いてくれたりして試行錯誤をしてくれていたりするが、正直死ぬほど面倒臭いだろう。)
だが、スティーブはお構いなしに、頭からケツまで力いっぱい歌わせてくれた。
一度、一つのマイクがオーバーレベルしてしまい、過激に歪んでしまった瞬間があった。俺はやり直しか、と思ったが、スティーブはコントロールルームでフェーダーをいじりながら、「これはこれでかっこいいから、いこう」とあっけなく採用。俺はレコーディングで、ここまで単純明快で、かつ、自分らしく歌えた瞬間がなかった。
初めて自分の歌が生かされた気がした。
結局、歌は補正や修正どころか、テンションと感情表現を最優先して、楽曲の頭からケツまで歌って、それでいいテイクを採用して、最後にスティーブが丁寧にオートメーションを書くだけ、という、まさに歌すらも一発録りで終えた。


こうして、時代が進歩し、ポップミュージックとしてのフォーマットが出来上がっていくにつれて、当たり前になっていたフォーマットをことごとく破壊しながら歌は完成していった。
決して美しい歌ではない。不規則にかかるリバーブ、でかいところは死ぬほどデカくて小さいところはとことん小さい歌、割れまくった絶叫、全く整って出ることのなかったファルセット。全てがそこに閉じ込められている。
俺は、白状するなら、自分の声が生まれてきてからずっと嫌いだった。
若い頃に心なく揶揄されてから、俺は歌い方を変えて、楽曲のキーを上げて、むやみに叫びたてるようになった。ライブで歌を披露するのなんて、本当につい最近まで深層的な嫌悪や恥が拭いきれないほどだった。痛めつけて、使い物にならなくなればなるだけ最高だとすら思っていた。
結局、喉は年々の酷使に耐えかねて今も鳴り方を変えている。もう元の歌声は思い出せないし、思い出したくもない。これからも声は変わっていくだろう。あるいは、もう歌うことをやめるか。
最後に歌を録音した曲…再録した「世界」の歌入れを終えて、ミックスの際、俺はスティーブと二人きりになることがあった。
俺はスティーブに、「俺は自分の声が嫌いなんだけど、スティーブは俺の声をどう思う?」と何の気なしに聞いてみた。スティーブはうーん、とボードの前に移動して、「これを聴いてみろ」と、ここまで酷使した挙句にとんでもなく枯れて割れまくった絶叫の、最後のサビの部分を、フェーダーを上げ下げしながら聴かせてくれた。「これはアンビエンスマイク(空間の音をとったマイク)だが…」と、言って、そのマイクの、不細工で不規則な反響と膨らんで歪んだローが「ブオッ!ブオッ!」と、俺の声に合わせて歪んでいるのを口で真似して、「ここはアルバムの中でも特にすごい声が出ている。グレートだ」と笑った。
たったこれだけのことだが、俺が若い頃死ぬほど聴いたロックを作り上げた男が、そして俺の声をここまで生かした人物が、端的にこう評した俺の声を、少しは誇ってみようと思った。
こうやって、自分の持って生まれた声は、ありのままに記録された。そして、残された声は、今度は少しだけ前向きに世の中に響き、誰かの背中を押すだろう。(そして、割れまくった俺の喉も、この不規則な破裂音すら俺たちは修正していない)
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ミキシングも含めたレコーディング作業は、結局予定よりも一日多い作業日を設けて完成となった。
ミックス中、思いの外盛り上がり、スティーブが熱心に曲を仕上げてくれて、「君たちが良ければ、一日多くやろう」と彼の方から俺たちに提案をしてくれた。
日本からわざわざやってきた俺たちのためを思ってなのか、それとも自分の作品に対して妥協を許さない姿勢なのか、ともかく、彼のインディースピリットとか、作品に傾ける情熱の深さとか、そして、ひょっとしたら俺たちとの作業で何か感じるものがあったのかとか、そんなことを思って、嬉しくなった。
最後の方はスティーブも冗談を飛ばしたり、「この音はグレートだな!」と笑い合えたり、俺たちは、ともかく、これだけ長い文章だが、言葉に表せないかけがえのない時間を共にすることができた。
EAを出る前に俺たちは写真を撮影して、礼を言ってスタジオを去る。スティーブはただ「see you.」と笑う。彼にとっては俺たちの作品もあくまで一つの仕事だ。
そうやってクールに日々を送る名匠の技で出来上がったマスターは、今頃シカゴの工場で最後の一歩を踏み出している。

そういえば、帰国後、スティーブから俺宛にメールが届いた。
「君の英語はとても上手だったよ」という冗談から始まったメールには、彼から俺たちへの最大級の賛辞が、とても丁寧に記されていた。
“You all did a great job and it sounds wonderful.”
彼は最終的に、俺たちのアルバムを評して彼はこう言ってくれた。
これから誰が述べるさまざまなレコメンドや評価よりも、俺にとっては最も価値のある言葉。様々な思いが去来したが、俺はシカゴで感じた風を日本に持ち帰って吹かせることを心に決めた。
最後に余談。スティーブはメールの末尾に、「Sayonara,and Good Luck!」と記していた。三十分くらい経って、スティーブから追伸のメール。彼は、またしても丁寧に『「さようなら」は永遠の別れの言葉のようで悲しい。また私たちは一緒に仕事をすると思っている。申し訳ない』と綴ったあと、
“Otsukare-sama desu.”
と添えていた。
スティーブ、こちらこそ、お疲れ様です。そして、もしも俺がまだ生きて音楽をやっていたら、また会いましょう。
そうでなくとも、あなたと過ごした日々は一生忘れない。
